つきよ

港に碇泊しております。

昨夜は、ある教会の夕拝にあずかってきました。

久しぶりにうかがったのですが、牧師さんが変わっておられました。
前職の、熱いメッセージを語っておられた老齢の牧師さん夫婦は引退され、お引越しなさったそう…。

メッセージでは、マルコの福音書16章から、イエスの復活のお話しがなされました。

福音書の中で最も古いのがマルコの福音書。
マルコの福音書は割とぶっきら棒に書いてある。
マタイやルカは、このマルコの福音書を土台に、装飾し、書き加えていったと…。

マルコの福音書の終わりはこのようである。
「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」マルコによる福音書16:6-8

…このように突如として終わる。
御使いである若者が、ご覧なさいと言ったのに見てもいない。逃げ出した。
弟子たちとペテロに伝えなさいと言ったのに、誰にも言わなかった。恐ろしかったからである、とある…。

このままでは伝道的にいかがなものか、希望ない結末はいかがなものか、ということで、マタイやルカは、女たちが復活のイエスに会ったことや、弟子たちにキチンと伝えたことを書き加えた…。

その書き加えたマタイやルカの福音書を参考にして、マルコの福音書16章には後に、結び1や 結び2が置かれている…。

はぁ………。( ´△`)

そんなお話しを、キリスト教会で聞きたくはなかった…。

もう…、ええかなぁ…。

満月は、変わらずきれいじゃったなぁ…。

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はつほの ひ

主イエス・キリストのご復活記念、おめでとうございます(^^)

お船は午前中は大分の津久見でお仕事ですが、終わったら大分の港に移動して碇泊できまする。

可能ならば、クリスチャンの集まりに参加させてもらって、ともに礼拝にあずかりたいと思ってますよ。

御子イエス・キリストの、十字架で流された血潮により洗い清められ、聖霊により、御父との交わりの中に入った全ての兄弟姉妹に、そしてまた間もなく入る人たちに、礼拝を受けられるべき方 主イエスの御名によって、豊かな幸いがありますように…。

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みえかたの ちがうひと(2)

お船は大分到着。
アンカーいたしまして、一安心。

さて、前回の続き。
主イエスの十字架のみわざによって御父との交わりを持っている仲間であっても、見え方、捉え方の違いがあるって話しの続きですけども…。

ユダヤ背景で聖書を学ぶことに、とっても興味を持っておるんですよ、わたくし。
でね、そっちに通じてる人の記事で、長い間、どうもつかみとれん部門があったん。
それが昨日ふと、ユダヤ背景のことについてお詳しい方のお一人、そのあるかたの一言で、

あー、この人たちの世界観はこういうことじゃったのか!!

…と分かって、嬉しかったんですよ。

Q&A式のコメントのやり取りのサイトがあるんですけどもね。
その中で、わたくしと直接やり取りしたわけではなくて、ある方の問いかけにその方が答えておられた一言が、わたくしが持っていなかった見え方の開けたキッカケじゃったわけなんですけども。

ところで、天国地獄って、どんなイメージがあります?
ユダヤ背景にお詳しい人たちの何人かがこう言ってたことを何度か耳に目にしたことがあるんですよ。
死んだ後の話しね。

「天国地獄というのは、後付けでキリスト教会が作った世界観だ。ユダヤ的ではない。」

「福音派主流で信じられているような艱難前携挙、空中 雲の中での7年の婚姻、それからの地上再臨など、ディスペンセーション主義に毒されたファンタジーに過ぎない。」

は?

…じゃないですか?

まあね、わたくしにつきましても、主のご再臨後の地上における千年王国を信じてるわけで、世の中一般のいう天国地獄観とは、違うっちゃぁ違うんですけど。

今からお話しするのは、誰の言ってることが正しいとかいうことではなくて、わたくしとはまた違ってそんなふうに見えて納得して確信しておられる仲間もおるのだ…ということなんですけども。

ユダヤ的には、死んだら眠った状態にあるんじゃて。
霊体で別の世界でふわふわ生活してるという世界観がないんだとか…。

じゃ、死んだあとの霊はどうしてんの??
…と、考える人は、ディスペンセーション主義に囚われとると…。

は?

時間に制約されるのは、生きている今の世界だけなんだ。
死んだら時間にとらわれなくなるという事を、あなたがたは受け止めることが出来ないのか?
ユダヤ的理解では、死んだら眠った状態にあり、時間は超越した状態におり、次 目覚めた時は、復活してるんだ!

おぉぉ…、そんな世界観なんだ!!!

やっと、そう言ってる人たちの世界観が見えてきた!

ディスペンセーション主義ってのは、時系列主義とも言えるじゃろう。
この考え方が強いと、この世界が時系列に流れているのと並行して、死んだ後の世界も、あたかも時間が流れていると考えてしまう…。
だから死んだ後も なにか世界があって、そこで待機して、身体は生きてないけども、魂とか霊体の状態で幸せに、あるいは苦しみの中で、時間を過ごすとイメージしてしまう…。 そこで、キリスト教会では死んだ後の、詳細はいろいろ違えど大雑把な言い方をすれば、天国地獄の世界観を作っちゃった…というね。

つまりその方がおっしゃるユダヤ的な世界観はそうじゃない。
大昔に亡くなった人も、少し前に亡くなった人も、これから亡くなる人も、どれだけ人間社会の歴史に時間が流れようとも、時間超越、眠っているのだ。 次、目覚める時。
それは、昨日眠った眠りから目覚めたかのごとくに、目覚める。それが、復活の日なんだ!

…というね。

おもろいショッキングじゃわ。
十字架の贖いを信じておられる方から発信され、しかもそれがユダヤ的と言われては、ユダヤ背景で聖書を読み解きたいわたくしにとっては、聞き捨てするわけにもいかんお話しじゃわ…。

この観点から、パウロさんの手紙を読むと、今まで見えとったのとまた違う見え方もできてまうしねぇ…。

ちょっと昨日の今日じゃから、「これじゃ!」…と思えてるわけでもないし、今までの考えを破棄するまでの気にもなってないし。
とにかく新たな疑問点も含めて、このお話しも、自分の中で時間をかけて消化していってみたいと思いまする。

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みえかたの ちがうひと (1)

熊本の苓北の後、山口の徳山、長崎の松浦と来て、ただ今 大分に向かっております。
しばらくずっと穏やかじゃったのに、よう時化て来ましたわい。

さてところで、主イエスの十字架のみわざによって、同じ救いにあずかっておる私たちの中でも、考え方、とらえ方の違いって、ありますよね。

これだ!…と、絶対的確信をもって、他の意見はもはや聞くまでもないというスタンスの方は多く、またそのような確信的メッセージのほうが聴衆も安心できるし、発信するほうのリーダーシップも発揮しやすいんじゃろうとは思う。

わたくしはズルいんかな?(笑)
「誰がどう言おうと、真実だけがなる!」と考えておるからなのではありまするが…、

たとえば携挙のタイミングにしたって、
ちょこちょこ ここに書いておることではありまするが
「艱難前携挙を心から願っておるが、艱難中携挙だろうとにらんでいる。だけど艱難後携挙であったとしてもすでに覚悟はできている」 …なんてね、こんなの、竹を割ったような性格の人たちが聞いたら業を煮やして

「なんやねんそれは! どれか一本にせい!!」

なんてね、言われそうですけども。

どれかにせぇと言われてもねぇ…。

結局わたくしめは、
どれだっていい…、のであります。

こんな人についてくる人なんていませんよね(笑)。
グループ作って引っ張るつもりもありませんけどもね。
救いに左右するのは、そこじゃねぇし。

ところで休暇の時に、クリスチャン ママ友からママに、「拡散希望」ということで、あるyoutube動画が送られて来たん。

外国人伝道者さんのやつでね、寝室でママと一緒に見ようったんじゃけど、
それは、携挙が起こってしまった後の、地上に残ってしまった人たち向けへの、遺言的励ましのメッセージじゃった。
自分らはその頃には艱難前に携挙されとるからね。

その中でハッキリこう言うたね。
「艱難中携挙だとか艱難後携挙だとか言う人に ついて行ってはダメです! そんな事を言う人は背教者ですから!」

あらあらあら…。
この世界ではパパちんは はぁ背教者じゃな…言うて、二人で笑うたん。

皆さん、わたくしには気をつけてくださいよ(笑)
くれぐれも、背教者になってはいけません。

でもまあ、心配には及びませぬ。
艱難前携挙が正解だったならば、艱難期にわたくしは艱難中携挙を話すことができませぬ。
なぜならその伝道者さんとわたくしは同じ場所におるでしょうから…。
そしてわたくしが言うでしょう。
「あなたが正解でしたわ。わたくしの見込み違いでしたわ…。とにかく、主は真実なかたですねぇ…。」

もし艱難中携挙が正解だとしても、地上でその人たちを「ほらね」なんて責めません。こう言うでしょう。
「ひょっとしたら7年フルバージョンかもしれませんけど、きっとあと三年半、一緒に頑張りましょや。更に一人でも多く、誰かを主のもとにお連れしましょうや。」

そこから三年半経って、二人ともまだ残ってたらこう言うでしょう。
「わたくしも見込み違いでしたわ。でもま、多分、残り三年半ですから、一緒に頑張りましょや。更に一人でも主のもとに!」

…ってね。

つづく…。

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のこるもの

お船は昨日の大分から、熊本は苓北というところに向かっております。

熊本はあの地震から、はや3年たったんじゃねぇ…。
昨日は阿蘇山が噴火したとか聞いたけど。
3年前の傷跡はまだ完全には癒えてはおらんそうで…、何かできるわけでもないんですが、つらい中におられる人たちに、元気が湧きますようにと祈りまする…。

災害は、いつ起こるかわからんもんねぇ。
南海トラフもああだこうだと言われておるようですけども。
わが住まい、愛知県も他人事でない場所にある…。

ここ数日、神様のことや信仰のことや、信仰によう似たもんのことや、世の中の心豊かな人たちのことや、いろいろ考えておるんですけども。

いろんな聖書の聖句を思い巡らせて思うのは、主の日には、この世の成功も富も、堪えることができんのんじゃなぁ…ということ。

御父は良い者にも悪い者にも、太陽を登らせ、雨を降らせ、食べ物を生じさせて、慈しみを注がれる。
それでもズレ者は、天から顔を背け、神ならぬ者にそれは向き、あるいは天にツバをする…。

主イエスに近寄った者はことごとく癒されたが、主イエスのもとに帰る者や、留まる者は、その中の比率にしてはわずかじゃった…。

悪しき者とは意地悪な人だけを指しているにあらず。
真理から的外れ「ラー」な者すべてをいう…。

「…悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。」詩篇1:4-6

人が主イエスを信じれるということは、まことに神わざという他、何物でもないわ…とつくづく思う…。

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とんでいるひと

とうとう休暇が終わってしまいました。
昨日乗船いたしまして、お船は徳山から博多にやってまいりました。

この度のお休みでは、子どもたちの習い事のつながりとか、知人たちからとか、youtubeからとか、いろいろと、世の中の心の様子を学んだ、お休みタイムでしたわ。

いろんな事の打開のために、信仰(〜のようなもの、〜に類するもの)に立っている人たち。
それは自己啓発だとか自己暗示なども含めて…。

信仰(〜のようなもの、〜に類するもの)の対象を、人格的神のようなものとする人たち。
はたまた人格のない宇宙的法則とする人たち。
はてさて脳をはじめとする体の機能とする人たち。肯定的思考の自己啓発、自己暗示。
諸々の霊的存在とコミットしようとするスピリチュアル…。

みんな、それぞれ真剣に、一生懸命求めて、それなりの答えや確信を見つけ出して、その確信をシェアしておられるんじゃなぁ…と 思うた。

私利私欲の匂いのプンプンする人も中にはおられるんでしょうけども、知人のたいがいの方は誠実、正直な心で、自分の幸せのみならず 本当に他の人の利となるためにやっておられる印象を受けました。

私利私欲権威欲の匂う人ならば、われらイエス・キリスト信仰を表するこの道の世界の中にも、いっぱいおられまする(笑)。

あ。
かく言う わたくし本人から匂ってたらごめんなさい。
匂うようなそんな気持ちのないように、そして持たないように、生きておるつもりではありますけれど。
すぐ調子に乗って高慢になる自分を発見しては悔い改める日々にもございます(笑)。

主イエスをご存じないにもかかわらず、他者への愛に満ち、ゆるして受け入れる寛容さがあり、常に悪から離れるお気持ちを保ち、天的存在や隣人に感謝心を持って、良い結果をあらわしておられる人たち…。

かえって、真の自由人であるはずのクリスチャンと呼ばれる人たちこそ、窮屈にすごし、やりたいと思ってることさえ殺して日々我慢をし、世の人の目に留まるような何かを提供することもできず、モヤモヤとしておられる人、結構いたりするんじゃないのでしょうか…。

天地を貫く法則。
わたくしめは聖書でいう律法と翻訳されているものを、そのようなもの、法則的なものと受け止めておりまする。

ひとたび神が語られたことによって法則的に動く祝福と呪い。
人が人としてあるべき姿、愛と義に歩むならことが良い実を結ぶように動き、背を向けるなら混乱し、そこで気づいて悔い改めるなら回復があるが、頑なに背を向け続けるならついには滅んでしまう…。

神が人の善にいちいち喜んでご褒美を与え、悪にいちいち頭にきて罰を与えるようなものではなく、法則的に。

天地を貫く法則じゃから、主イエスを知る者にも知らない者にも、万人にこれは及ぶ。
人は皆この法則をなんとなくでも心に持ち、この法則はさらにユダヤ人を通して文字なるトーラーとして人類に与えられた…。

十字架以前の人たちにとっては後に来るメシア・イエスの贖いによって、十字架以降の我々にはすでに来たメシア・イエスの贖いによって、 主イエス・キリストという固有名詞を知る者にも知らない者にも、
悔い改める者には等しく、律法の法則を呑み込むほどの神の憐れみ 恵みがのぞむ。

でもこれらは、法則的な話であって、救われているというしるしにはならない。

法則に乗っかることと、誠の神との交わりを保つこととは別の話なんじゃわ…。

ルシファーはこの天地を貫く法則をよく知っていて、巧みに利用して人々を錯乱し、人々の心の目を誠の神から離させ、ちゃっかり心を盗んでおる…。

法則に乗っかって心豊かに生きる人も、うまく乗れんで貧しく生きる人も、主イエスを見出せなければ等しく、ルシファーに上手に心が持ってかれることじゃろう…。

まことに、主イエス・キリストの他に、救いはない…。

こういう人々を相手に福音を伝えるためには、文字以上、法則以上、しかも奇跡があろうかなかろうが関係のない、生まれ変わりがともなう実態なる福音でなければ…。

どうしたらええんじゃろう…。

主よ…。

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さくら まう

こちらは昨日、一昨日がまさに桜の満開。
でも夕べからの強風で舞い散っておりますなぁ…。

潮もよろしくなかったので、魚釣りも早々に引き上げて、桜舞う公園でバトミントン。

次の満月の頃がペサハ(すぎ越しの祭り)の頃じゃったねぇ…。
今週末には乗船じゃから、その頃にはパパはもう海の上じゃなぁ。

こうしている間にも、主なる神は、宗教なんかに拘束されない新しい皮袋な聖徒たちを、あちらこちらで成長させておられるんじゃなぁ…。

目に見える形ではないけれど、なんか、そんな香りを感じる今日この頃。

「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。 わたしは国々の王座を倒し/異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も/互いに味方の剣にかかって倒れる。 その日には、と万軍の主は言われる。わが僕、シェアルティエルの子ゼルバベルよ/わたしはあなたを迎え入れる、と主は言われる。わたしはあなたをわたしの印章とする。わたしがあなたを選んだからだ」と/万軍の主は言われる。」ハガイ書2:21-23

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