今月三回目の、熊本苓北のお仕事でありました。
こんなに続いたことは今までなかった 珍しいことなんですけどもね。
そこで、苓北ってどんな街?
とふと思い立ち、調べてみました。
へぇ~っ。
島原の乱の、天草側の激戦地だったんだ…。
天草四郎時貞で有名なアレじゃんか…。
わたくしたちが寄港している九州電力の岸壁から、ほどなくそこに見えている、ちょいと突き出た形の地続き島のような所に、富岡城跡がございます。
その突き出る根っこの辺りに志岐という地域があって、ここにかつてイエズス会宣教師が教会を建て、天草地域のキリスト教の始まり、広がりの、拠点になったんだそう。
時の藩主によって、それは重たい年貢の取り立てが続くようになっていたそうな。
言われた通りの年貢を納められない民衆には、酷い拷問があったと言います。
凶作で作物がとれなくなった時期にさえ、その強要の手は緩むことなく、お百姓さんたちは苦しめられておった。
時代は並行して、宣教師たちの出入りする同じ船で日本人が奴隷として連れて行かれて外国で売買されているとか、キリシタン大名たちが日本の土地を勝手にローマ法王に寄進しているとか、神社仏閣を破壊しているとかいう情報があったもんだから、国防を懸念した幕府によってキリスト教 禁教令が全国に展開している時期でもあった。
天草のお百姓さんたちの多くはキリシタンでもあり、なおさら目の仇にされやすかったようでありますね…。
とうとう我慢できなくなった民衆は、天草四郎時貞を立てて武装蜂起いたします。
あの富岡城にみんなで攻めに来たんですけど、地理的要衝でもあり、これがお百姓さんからなる にわかザムライたちではなかなか落ちない…。
兵糧攻めしやすい土地に、わたくしの目には見えまするが…、
ま、思いつかなかったのか、幕府軍が加勢に近づいて来てたからか、そこんとこは分かりませぬが、彼らは富岡城奪取をあきらめて、もうちょっと東の港から、対岸の長崎側に渡ります。
そこにはかつてキリシタン大名が建てた原城がありました。
住んでいたお殿様は、違うところにもっといいお城を建てて引っ越しておりましたので、空き家ならぬ空き城状態であったようであります。
そして、島原地方と天草地方の百姓ザムライたちはそこに合流して結集し、駆けつけて来た幕府正規軍と戦う。
全滅でありました…。
1638年の2月のことと言いますから、ちょうどこの今頃の出来事なのですね。
苓北の街に視線を戻しますけど、富岡城の割と近くには、千人塚がございます。
処刑されたキリシタン一揆勢の首は1万あまりあったそうですが、その約三分の一に当たる3,300個の首が、そこに埋葬されているそうな…。
荒れ果てた天草地方の立て直しのために、愛知県三河出身のお殿様がこの地に遣わされました。
調査したら出てくる出てくる、島原藩主の悪徳圧政の証拠が…。
彼によって藩主は処罰されることになり、重税は解かれ、平和がやってきたそうな。
そして彼は千人塚に牌を建てて、心を込めて忠魂いたしましたとさ。
それが、富岡吉利支丹供養碑、というわけであります。
クリスチャンでもあるわたくし。
とても、複雑な気持ちでありまする…。
彼らは当然、祈りに祈ったことでありましょう…。
だが
キリスト教といっても、政治的野心を腹に持ったイエズス会。
それは活けるキリストを知らなかったであろう混ざりものだらけの形骸化した宗教。
聖霊によらず、肉に任せた血肉の戦争。
結果としての、悲しい刈り取り…。
わが知性では、なんと祈ってよいのか分かりませぬ。
魂のうめきを悟ってくださる御霊によって、言いようもない心のうめきを知っていただこう…。
ああ、わが主よ…。