ふゆのまつり

キリスト教をかじっとる人の中にも、クリスマスについて物議があるんじゃね。

12月25日がイエスの誕生日じゃないのが分かっとるのにクリスマスを祝う意義はあんのか とか。
その日は太陽神礼拝の異教の風習から来とる偶像礼拝じゃとかなんたら…。

今までは
『そんなに目くじら立てて怒らんでも、日にちがどうあれ、キリストが人となって降誕された事実をお祝いすることはええことじゃん。』 ぐらいにしか思ようらんかった。

夜の航海中にふと思う。
ふぅ〜ん、そういえば、なんでこの時期なんじゃろう…。
もしこの時期が聖書と関連できたなら、そこには神のメッセージがあり、教訓があり、それは地上の人に対するしるしとなっとるはず…。

!!

あるわ…。

宮きよめの祭り…。
ちょうど世間でクリスマスをやっとるこの時期じゃわ。

ヨハネによる福音書 10:22-23
そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。
イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。

宮きよめの祭りは 神殿が再奉献されたことを祝う祭り。

旧約聖書と新約聖書の間の沈黙の時代に…
沈黙いうてもイエスの初臨の下地が準備される歴史が満ち満ちとったわけじゃけどその頃、終わりの時代に出てくる反キリストの預型のひとりであろうアンティオコス・エピファネスが、エルサレムの神殿の聖なる所にズカズカ入って異教の神々を据え、汚れた生け贄をささげてしもうた。 神殿が汚されたわけじゃ。

当時の宗教的リーダーたちも、神の民と呼ばれとった多くの人たちも、世と妥協し、異教の風習に侵食され、反キリストであるその王の権力に協調しとった、そんな、まるで現代みたいな(笑)、時代じゃったん。

それに対し、マカバイ家という数人からなる一つの家族が立ち上がった。
小さな始まりじゃったけどもやがて多くの賛同者がつらなり、裏切り抜け駆けみたいなことに見舞われるような苦境をへたようじゃけども、ついには神殿を奪回することができて、神殿から異物を取り除いてきよめ、神様に再び奉献することがかなった…。 それを記念するお祝い。

そのお祭りに、主イエスも来とられたんじゃねぇ。
公然とご自分を証しされとったのに、聖書から神についてよう知っとったはずの人たちはイエス本人を認めることが出来んかった…。 見える、見えないの物議。
『その頃』とあるのはヨハネの福音書のその前の章、8章や9章の出来事も『その頃』いうわけじゃ。

生まれながらの盲人じゃった若者がイエスによって目が見えるようになった!
ところが聖書によって神についてよう知っとるはずの指導者たちは彼の証言をどうしても信じん。
若者は家族からも距離を置かれて攻め続けられるんじゃけど、この『神を体験した』若者は、大胆に、見えるようにされたことを、神についてよう知っとるはずの人たちに証しした…。

クリスマスによって、公然と主イエスの名が証しされようる…。
まことの降誕祝いについて、世に語りかけられようる…。
それでも信じない人は信じない。
憂うべきことは、神の神殿であるはずの教会の世界の中に、世との妥協、反キリストの霊への同調の現実があること…。

イエス・キリストを体験した小さな証し人たちよ。
まことの神殿を奪回し、間もなく来られる主に、しみも傷もいやされた聖なるものを、おささげしようではありませぬか。

よいクリスマスを(^^)/

ないすみてゅる について

パパをやってる ホームスクーリングもやってる 5人のパパ タンカーの航海士 愛知県在住
カテゴリー: バイブル・スタディ パーマリンク

コメントを残す